Report

2014/09/01

「7月4日の空間放射線量0.14μSv/h」(1) 集会所の掲示板には毎日更新される線量が記されている。この目に見えない放射線量が高いのか低いのか、人体にどんな影響があるのか、予備知識が無かった私は、数値を確認した次の瞬間には、頭から離れていた。目に見えない、痛くも、痒くもない、数値でしか確認できない放射線というものに囲まれ、そこに立ち尽くす。逃げ場も無く、逃げる様子も無く、ここに人は生活しているのだから。日々というものはこうして過ぎ去っていくことになるのだろう。
 福島市の仮設住宅に住む叔母を訪ねて1年半以上になるが、まだ明けない梅雨の重苦しい雲が黒光りする真新しいアスファルトに立つ住居を圧迫していた。一棟4世帯が入る笹谷東部仮設住宅全180世帯の軒先は千差万別。プランターに植えられたミニトマトや大葉、サッシ窓には日よけとして植えられたツル科の朝顔やゴーヤが夏に向けて着々と背を伸ばしていた。それは震災後2年半目の生活の結晶であり証なのだ。

2A-3川久保叔父叔母宅
 こんにちはと玄関を開けると、レイがご苦労さんと出迎えてくれた。入ってすぐに台所、左手に居間、右手に畳の寝室が並ぶ。居間では長久が白のランニング姿で書き物をしていた。
包装紙の裏に大きな文字で俳句を清書している最中で、私が着くと同時にぱたぱたとたたんでしまった。‘何かやらないとぼけるんだ’と暑さで赤らんだ顔は優しく私を見上げた。
“収束も 未だ手探り 盆になる”
“今年又 防具服で 墓参り”

 代々田畑を受け継いできたご先祖様を迎え入るお盆が又やってくる。彼ら農家としての営みは、ある日突然夏を迎える事ができなくなった。ある日突然彼らの時を止めてしまった。

 長久が座る正面の壁には‘感謝’と記された色紙が飾られてあった。
あるお寺の達筆な和尚さんが好きな言葉何でも書くといわれ、真っ先にレイは‘感謝’とお願いしたらしい。避難所を点々とする中、この仮設に入り、生かされている日々は感謝の念で一杯である事を実感したという。彼らにとって見いだした希望は感謝することであった。震災後初めてここを訪れた時の彼らの落胆は忘れられない。そこに帰れるはずの家があるのに、帰れない屈辱と絶望の中、彼らの先が見えない生活が始まった。彼らもまだ難航した旅の途中なのだ。
− 福島仮設訪問日誌「タイムマシーン仮設に乗って」より 2013. 7.4

ここでは1日3食食べる事が仕事だよ。レイは苦笑いした。
震災前はスーパーなどで肉、魚など以外の食料を買うことはなかったという。畑でとれた野菜と田んぼで収穫される米があれば不自由はなかった。現在、近所のスーパーで購入する400円のお弁当がお昼ご飯となるらしい。日課という日課が変わり、50ヘクタールあった田畑を毎日管理していた暮らしから、4畳半の居間で3度の食事を取り、午後のワイドショーに食い入り、来客とお茶飲みをし、お昼寝をしたりと、全ての用をこのスペースで済ます。そして就寝時間には、隣の四畳半で一日の疲れを癒すのであった。目が覚め、悪夢であって欲しいと何度願った事だろうか。けだるい朝を迎え、淡々と日課をこなし月日が経った。

“メルトダウン ロボット頼みの 東電か” 
季語がないからこれは川柳だ。

 今まで季節の変化を肌に感じ、歌にしてきた生活から一転、テレビの前から動かない長久は、“もう外に出なくても、想像でもかける”とつぶやいた。
 盆が過ぎ、変わらぬ夏の日差しがアスファルトを照りつける。東集会所の前に停まる駅を繋ぐ巡回バスは空っぽなまま出発を待っていた。運転手は甲子園実況が鳴り響く中おにぎりをほおばっていた。

この日C4−4の元漁業組合会長の守久さんを訪ねることになっていた。
ブザーがないのでサッシ戸を開け、ごめんくださいと声をあげた。
体格の良い大柄の守久さんは迎え入れてくれた。同じ間取りなはずなのに、
訪問する住宅それぞれの空間使いで全く違う部屋の感じを醸し出している。
守久さんは冷蔵庫から夏みかんゼリーを取りだし、私を居間に通し、ゼリーを差し出した。壁一杯に等間隔で帽子が飾られ、どれもダンディーな守久さんに似合うものだった。津波で流される前は50以上もあったのだと笑顔で定位置に腰掛けた。甲子園中継に目を向けながら、何か聞きたいことはあるのか?静かに聞いてきた。

 長久から守久さんの住まいは津波で流された事は聞いていた。
 過去に請戸地区では巨大津波が押し寄せた記録、言い伝えは無かった。地震直後高台に逃げた人々は少なかった。最も、黒い壁になった津波を見てはじめて山の方に向かったという。命からがら津波を逃れ、全ての財産、家、家族を失い、この上ない絶望感と寂しに苛まれる日々を送った顔は私を直視した。 翌日から放射能汚染で救助隊すら立ち入りを禁止され、がれきに埋もれ救助を待つ人々や助かった命はたくさんあったはずなのだ。守久さんの思いが綴られる中、ご家族は無事でしたか?無頓着な私の質問に“妻が津波に呑み込まれ、帰らぬ人となった”と返ってきた。私は、それまでの暑さが嘘の様に凍りつき言葉を失った。絶望と悲壮感に苛まれた者の口を開かせた自分を恥、返す言葉が見つからなかった。もっと浪江町の津波被害の参上を知ってもらいたいと続けた。この土地にも津波が襲来し多くの命を奪った事を、今後また起こりうる津波災害に備える為に語り継いでいきたいと語ってくださった。浪江町の被害は放射能汚染だけではない。沿岸で生活していた人々を丸呑みにし、救援活動は行われず、漸くがれきの撤去と死体の確認を開始したのは震災後一ヶ月であった。亡くなった命をも粗末にされ、それを思う家族の絶望と悲しみは言葉に代える事はできない。挨拶を済ませ腰を上げた私は一礼して静かに玄関口に向かった。守久さんは玄関口まで足を運ぶ事は無く、引き続き甲子園中継に集中した。それを確認した私は安堵し、彼の空間を退出した。
 私は守久さんの前に進もうとする強い意志と過去の出来事のはざまに出くわした。赤の他人に口を開くまで、どんなに辛い思いを消化し、乗り越えてきたか計り知れない。当事者ではない者に打ち明ける強さを無駄にしたくない。そこに多くの犠牲者を出した事実や土地の記憶を人々に知ってもらい、浪江町が次世代に語り継がれる事を痛切に願った。私は共にこのタイムマシーンに乗る事を決意した。